しばらくはてブロを更新もせず、カイジを観たりモリミュを観返したり、トリコを観たり(全部めちゃくちゃ面白い)ひたすら散歩をしたり、退職後のことをぼんやり考えながら過ごしていた。文字にして吐き出さなくとも、自分を保てているということは、精神がかなり安定している証拠なのだろうか、と考える。
(追記:12/1 この冒頭を書き始めた2週間後が今なのだが、一気に落ちている。振り出しに戻ってしまった気分だ。)
北海道に戻ってきてから、高校の陸上部時代の友人と、割と頻繁に会っている。彼女がわたしのはてブロを結構読んでいることが判明したので、改めてひゃくえむの感想を文字起こししていきたいと思い、帰りの電車内でこの文章を書き始めた。
今日は親知らずの抜歯をした。3ヶ月ほど前、精神がひどく落ち込んでいるにも関わらず異常に歯が痛く、泣く泣く歯医者へ行くと、CTを撮られ、歯石をただ除去された。痛かった。親知らずと神経が被っているのでここでは抜けない。大きい病院へ行けと言われて行った大きい病院では、3時間待たされた上で、3ヶ月後の予約を取られた。3ヶ月後の本日、親知らずを抜いてきた。
抜歯を担当してくれたおじいさんの歯科医は「骨を削ったのでかなり痛くなる」と言っていた。私は返事をした後麻酔でうまく動かない口で「抜いた歯ってもらえますか?」と聞いた。おじいさん歯科医は私に、肉片が付いたままの血まみれの歯をジップロックに入れて手渡してくれた。乳歯を抜いたときはかわいい歯の形のケースで貰えたのに、大人はジップロックでしか歯を貰えないようだ。
映画を観た後、どうしても言葉にしたい時、そしてその気持ちを言葉にしようがない時、やはりTwitterは便利だなと思う。Twitterは感情の言語化ツールでありながら、そうではないからだ。
映画を観てからしばらく経った上で2度目の視聴をした今の感情の熱量と、初見の熱量には圧倒的な差がある。あの熱を込めた文は、『ひゃくえむ。』2周目今の私には到底書けない。
私の『ひゃくえむ。』の感想は、1回目の、あのトラックで感じた湧き上がるドーパミンや、それに対する懐かしさ、人生を賭けた経験への郷愁に似た感情からしか出力できないだろう。Twitterでは埋もれてしまうかもしれないので(自分の初見の熱量を愛おしむ趣味があるため、エゴサできる様に「わたしと〇〇」という文面を必ず入れているのでそんなことはないのだが)まずはその時書き上げた感想を抜粋、一部添削して以下に載せようと思う。そしてその後、2度目の『ひゃくえむ。』視聴で見つけた新たな発見や自分の思考を述べていくことにする。
わたしとひゃくえむ から抜粋及び添削
・100mをやったことがある人間なら分かると思うんだけど、公式サイトにある「才能型」と「努力型」なんてそもそも嘘なんだよ、100mっていうのはとにかくそもそもある程度脚が速いやつ、そして脚が速くなる可能性を秘めている圧倒的な「才能」があるやつがいて初めてモノを言える競技なんだよ。
・気持ちとか根性とかそんなのでなんとかできる領域じゃない、けどその領域を一度超えて、そこに集うすべての人間たちが才能を持ちその上で努力を怠らずに相対することになった時、もう一度その「気持ち」でモノを言わせることができる領域がやってくる。
でもそこを一周した時、もう一回回った時世界がまた開けるんだよ。今ずっと海棠最高ラストレースの小宮とトガシ(特にトガシ)最高の話をしている。
・てかなんなら100なんて力んでガチガチになって普段のパフォーマンスが出せなかったらそこから挽回の余地がほとんどないみたいな競技なの なのになんなんですか幼少期及び高一小宮。
・勝つのって楽しいんだよ、走って勝つのってマジで楽しいの、だからわざわざ走る、走るだけのことをわざわざ極めようとする。だって走るだけで勝った時ってマジで気持ちがいいから。幼稚園のかけっこだって、小学校でリレーの選手に選ばれた時だって、中高の大会だって、勝てば楽しいし気持ちいい、負けたら悔しいし苦しいし楽しくない。でも、勝った時の気持ちよさがあるからこの競技って人を惹きつけるんだよなと思う。圧倒的に自分の力で、自分のやってきたこと、才能、生きてく中で培った全部がその、走ってる間は全部出てるんだよ。気持ちいいんだよな、懐かしい気分になった、異常なまでに。
・財津の言ってることにすべて同意する。全力で走って、全力で人と競うっていうっていうのは生きるってことなんだ。生きることに似てるとかじゃなくて人生そのものなんだ、イコールなの だから私はもう出涸らしなんです。出涸らしの人生。アレを体験してしまうと、そうとしか思えない。
でも、死ぬわけじゃないんだよな 今こうやって生きているわけだし。わたしはこの出涸らしの残りの人生を、自分なりにどうこうしてハチャメチャにしていかないと……じゃないと、生きながら死んでるようなもんだ。死にながら生きたい。毎日毎日毎日毎日破滅して、死にながら生きたいよ。
・陸上部っていうのは常に野球部、サッカー部、あるいはソフト部に虐げられ(学校にもよるだろ)練習場所を奪われ、「走ってるだけだろ」「何が楽しいんだよ」と嘲笑され(人によるだろ)それでも走ることに居場所、苦しみ、絶望、希望、全てを超越する快楽を見出した人間の復讐劇なんだよ。
・ごめんなさい全然自分の青春に想いを馳せたり陸上競技ってやっぱり面白い、やっぱり走るのって気持ちいいんだ、最高なんだ…ていう限界感情に囚われすぎていてボーイズラブの話をしている余裕がないんですけど、普通に考えてカバトガくらいしか恋愛させようがない(追記:今は宮トガもわかる)
以上がひゃくえむ。初回視聴後の私のツイートを一部抜粋したものである。
今読み返しても、その通りだな、としか思えない。私は人生に対して、破滅寸前のヒリついた空気感を求めている。それは昔も、そして今も変わらないのだと思う。そのヒリつきを求め、「ガチ」の瞬間を求め続ける人生は苦しい。自分が、自分の体一つで「ガチ」になれる瞬間なんていうのは、レールの上をなんとなく歩こうとする人生を送る上で、本来殆ど存在し得ないものなのだから、それを追い求め続けるのが苦しいのは当然だ。でも、一度その快感を知ってしまったら、またその快感を味わいたくなってしまう。私は諦めが悪いので。
私は負けず嫌いであること、そして諦めが悪いことが自分の唯一の取り柄だと思っていた。だから、何に対しても全力で向き合えると、立ち向かえると、この取り柄があればやれると思っていた。でも、そうじゃなかった。自分が「やりたい」と強く思って、自分の意思で選んだ道に対してしか、その取り柄は発揮されないんだなとやっと気がつくことができた。
気がついてから、この映画に出会えたことは幸福だったと思う。もう戻れなくなってから、陸上競技から離れてから、この映画に出会えてよかったと思う。
作中に出てくる人物はほとんど皆、圧倒的な「才能」を秘めている。そうでないのは鰯弍の女子部員、浅倉と椎名くらいだろう。
そんな浅倉が陸上を「いいよね」と言う。どちらかと言えば浅倉側に属する私もまた、「いいよね」と思う。10年後、浅倉には子供ができており、テレビの前で共に100mの決勝を見届けている。本来、競技スポーツとはそういうものなのだろうと思う。人生の中で、ほんの一時「ガチ」のヒリつきを味わえるもの。その中で特別な者だけが、ずっとそのヒリついた空気の中に生命を捧げられるもの。その快楽に一生を投じる者もいれば、別の形で競技に触れ続ける者もいれば、傍観者として距離を置く者もいる。私は結果的に距離を置いた人間だが、それでもあの感覚への恋しさは、今も身の奥にヒリヒリしたまま残っている。
陸上競技は、自分と圧倒的な才能が同じトラックの上で交差しえる場所だと思う。辞めたことを後悔している訳でも、今も続けていればよかったとも思わないが、あの交差した瞬間の事を覚えていられる自分で、思い出せる人生でよかったのかもしれない、なんて事を思う。
映画を観たあと、中学時代の顧問の言葉を思い出した。顧問は私が中2から中3になる時に移動になったのだが、その時に部員全員にオリジナルの下敷きを作って渡してくれた。そこには「走ることは生きることとよく似ている」というメッセージが大きく書かれていて、その下に少し小さな文字でメッセージが添えられていた。その内容は詳しく覚えていないのに、走ることと生きることを繋ぎ合わせた短文だけは、今も妙に頭に残っている。彼を一言で表すとすれば、快活な爺さんだった。私達の大会がある日が自分の出る札幌マラソンと被って、札幌マラソンを優先したり、自分のマラソンの練習を兼ねて部員全員を10kmランに連れて行ったり、練習するための競技場にハーレーで来たり、競技場練習のための移動の際に乗るところがないからと言って私を荷物起きに乗せて移動するような生物教師の爺さんは、吉田鋼太郎に少し顔が似ている人だった。『ひゃくえむ。』面白かったよ、観ましたか?死んでませんか?